私は奏者でもなければ画家でもないため、私が33歳の夏に聴いたモーツァルトの「トルコ行進曲」で見た「アジア的なもの」を他人と分かち合うことはできない。
私が見たあの「アジア的なもの」は幽霊のようなものであり、どんなに私が「見た」と言っても信じない人はきっとたくさんいる。
むしろ曲の成り立ちに関する知識などネットで調べればすぐに出てくるため、下手をすれば、
「得た知識をそれっぽく話してるだけの人」
にしかなれない分、幽霊よりも面倒なものかもしれない。
そしてもし、私の「見えた」経験を100人に話し、100人に納得させる能力が私にあれば、私は新興宗教の教祖になれる。
それができないから私は小説家なのだ。




