
つくづく「歴史を語る」とは、全てが終わった後に断片的に残った資料を元にああだこうだと好き勝手に論じることだと「項羽と劉邦」を執筆しながら感じた。
もちろん当事者たちへの敬意は大切だが、そもそも敬意というのは当事者本人から何かしらのコンタクトがあった時にその有無が明らかになるものなのだからこちらがどんなに「敬意を抱いてる」と主張したところでそれが本当にあるかどうかなど確かめようがない。
そのため歴史は手っ取り早く「私は賢く他人に敬意を払える人間です」と周囲にアピールしたい人間にとって都合のいいものでもある。
歴史に携わる仕事をしたことがある私は、0歳の娘を抱きながら私自身の31年について考えることが増えた。
まだまだ自分も若いとは思いつつも10年前、20年前よりも節々に衰えを感じないわけではない。
そして特に20代後半の私は若さゆえの美しさを武器に自分の道を切り開いてきたのだから若いということのメリットは他の人よりも堪能したかもしれない。
それでも10年前、20年前を振り返って「あの時こうしておけばあんなことにならなかったのに」と思うことはたくさんある。
しかしそれも10年、20年経った今だから言えることでしかなく、あの時はあの時で私は一生懸命だった。
若いというのはそれだけで無知だ。
歳を重ねたからこそあの頃の自分に好き勝手な持論を展開できる。
そう思えるのは歳を重ねたからこそなのだろう。
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